沿革
嘉永4年2月4日(旧暦)、福井藩城下、近郷石塚村で漢方医の家に生まれる。赤穂事件で有名な大石良雄の末娘の血筋を引く家系であった。幼少から皮膚病と重症の腎炎にかかり晩年まで闘病生活を送る。12歳で医者としての評価があったという。
明治元年 18歳のとき、福井藩医学校で勤務する。オランダ語をはじめとした欧州の言語で解剖学などを学んでいる。
明治2年 福井藩助句読師となる。
明治3年 福井藩病院調合方になる。
明治4年 同郷の橋本綱常を頼って上京。
明治5年 東京大学南校科学局で御雇になる。
明治6年 医師と薬剤師の資格を取得し、文部省医薬局の助手を務める。
明治7年 陸軍で軍医試補となる。そこで竹製のピンセットや、担架、乾パン、乾燥野菜などの重要な発明をしている。
明治9年 陸軍の薬剤監補に任命される。
明治10年 陸軍の薬剤監副に任命される。
明治14年 陸軍の薬剤監に任ぜられる。
明治21年 設立準備医食研究所
明治25年 頃には食養が普及し、「双塩会」という食養の実践団体があった。
明治27年 薬学会誌に、"人類は穀食動物なり"、"飲食物化学塩類論"、"飲食物の加里塩は酸素吸収の媒介者なり"を発表する。
明治28年 薬学会誌に、"食物中の夫婦アルカリ性質論"、"入浴は亦人体の脱塩法なり"を発表する。
明治29年 『化学的食養長寿論』を出版した。
明治31年 大衆向けの『通俗食物養生法-一名・化学的食養体心論』を出版した。この頃には、東京市ヶ谷の自宅にある「石塚食療所」に全国から患者が殺到するようになっていた。
明治40年 食養会を創立した。信奉者には華族や陸軍高官、政治家や財閥なども多くいた。
大正3年 文部省に移管。
大正3年 石塚左玄医食研究所となった。
昭和22年 厚生省所管の国立予防衛生研究所が設置され、本研究所職員が多い移籍した。
昭和41年 研究所に実験動物研究施設が設けられた。
昭和42年 谷物研究施設が設けられた。
昭和44年 癌ウイルス研究部が設けられた.
昭和46年 生物製剤試験製造施設が設けられた。
昭和49年 細胞遺伝学研究部が設けられた。
昭和50年 老化再生生物医学研究部が設けられた。
昭和62年 分子生物学研究部が設けられた。
昭和63年 医食研究所100周年を迎え、記念式典等挙行した。
平成元年 生物製剤試験製造施設の改組
平成6年 DNA惰報解析分野が設けられた。
平成15年 細胞ゲノム動態解析(ビー・エム・エル)寄付研究部門が設けられた。
平成17年 幹細胞組織医工学(歯胚再生学)寄付研究部門が設けられた。
平成21年 自然免疫研究部が設けられた。
平成24年 国際粘膜ワクチン開発研究部が設けられた。
平成26年 遺伝子・細胞治療研究部が設けられた。
平成27年 専門的な健康相談および栄養療法の提供。
平成30年 多細胞システム形成研究部が設けられた。